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2015年10月14日

松田康長書状に見る小田原城の西の守りと片浦口

松田康長というのは、天正15年に北條氏が山中城に配置した武将で、天正18年3月29日(1590年5月3日))に豊臣軍に攻められて亡くなった方です。亡くなる直前の3月19日に箱根権現の別当に宛てた書状が箱根神社に残されています。



ここに次のように記されており、箱根路は山中城、片浦口は韮山城、川村口は足柄城の三か所で守ると書かれています。

屏風山も二子山も何山も、小田原之防ニハ不可罷成候、箱根路ハ当城、片浦口者韮山、川村口ハ足柄之城、三ヶ所ニ極申候

韮山城の脇から山を越えて小田原に入るルートを小田原から見て片浦口と言っていたことが分かるのですが、片浦とはどの辺りの地名でしょうか?小田原や真鶴、熱海の方の浦でしょうか?小田原の西側辺りが怪しいと思っているのですが。

この韮山ルートについては、最近、韮山から熱海を抜ける道だと言われているようですが、下記の資料では「伊豆より十国峠(日金山)を越え、白銀山を経て小田原へと続く尾根道」と解説されており、ずっと尾根づたいに行くルートです。

http://incloop.sakura.ne.jp/matsuda/matsudake_rekisi.pdf

片浦口というのは、そもそも一つの道を意味しているのではなくて、経路は複数あり、方面を意味しているのではないかと思います。



  
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Posted by 冬苺庵 at 07:34Comments(0)